私は長い間、自分が生れ落ちた光景を実に鮮明に覚えている。2010年8月16日、暗闇の中で10時間ほどもがき苦しんだ中、突然光まぶしい世界に飛び出した。10時間の格闘の末、私の頭は細長く変形し布袋様の様な形であったようだ。生れ落ちた時間は、真夜中近く23時頃だと言う事を後で聞いた。
目を凝らすと横には10時間に及ぶお産の疲れと満足感と安堵の中で、微笑を浮かべしっかりと私を見つめている女性が横にいた。これが私の母親である。また、ベットの横ではカメラ片手に興奮のあまり、はしゃぎ廻りよかったよかったと大声を張り上げ私の廻りを飛び跳ねている男がいた。これが私の父親である。また、ドアの向こうで私を見つめ、笑っているような泣いているような複雑な表情をした年老いた夫婦が2組いた。互いに顔を見合わせ、これもただただよかったよかったとうなずいている様子が薄明かりの中ではっきりと分る。
少し経つと白い服を着た、きびきびした女性が突然私を持ち上げた。その瞬間、私はせきを切った様に泣き出した事を覚えている。とても気持ちの良い叫びのようだった。そして、タオルに包まれ、少し離れてた大部屋に連れて行かれ、小さなベットに寝かされた。そこには私以外に赤ん坊は誰も居らず、大部屋を独り占めしたようだ。後で聞くとこの病院は2ヶ月ほど前いに新築され、私がこの産婦人科病院での第一号目の赤ん坊らしい。名誉な事か、心配な事かは今ではどうでも良い。私を取り上げた先生の名は水上先生と言い、私の母方
のお父さんの友人であり、千葉大学の産婦人科を出た台湾人の先生である。更に、この先生と私の父親側のお父さんの中学時代の友達(千葉大学産婦人科)遠藤先生とも知り合いであったと言う、これまた不思議な繋がりがあった。奇妙にも、この世の中深く探り出せば、くもの巣のごとくどこかで人と言うものは誰かと繋がっているものだ。
移されたその小さなベットの中は今までの居心地の良さとは違った安心感と居心地の良さを感じた。目を見開くとガラスの向こうで私を見つめる4~5人の顔が見える。私を見てはニコニコと笑い、手を振り、更にはパチパチと光を放し、まぶしく目が開いていられなかった。
その時は、まだ私の名前は付いていなかった様だ。名前の由縁はそれ程大した経緯や考えは無かったようだ。単にエージ(英史)と言う響きの良さと英語の得意な父親の名前の史郎の「史」を貰っただけ。その後、私は4歳になるまでの記憶は全く無い。しかし、この瞬間、この一日の出来事は実に良く覚えている。
ある著名な作家平岡 公威も同じ事を言っているが、私も自分の生れ落ちた瞬間を頭の片隅にヘバリ付いている。この記憶は剥がそうにも、自分の記憶のシミのように、頭に深く張り付いて離れない。